東京の街から江戸の暮らしに思いを馳せる 江戸から続く東京の地名<水辺地篇>

佃島

佃島【中央区】

佃島 中央大橋

東京都中央区に位置する「佃」は、隅田川河口の2つの中州、佃島と石川島から発展した街です。名前から分かるように、江戸の庶民の味として知られる佃煮は、この佃島で生まれました。ここの漁師が弁当の肴が腐らないよう醤油で辛く煮付けていたことに目を付けた、茅場町(中央区)薬師寺堂前の料理茶屋主人が、改良して売り出したのが始まりと言われます。

この佃島の成り立ちは徳川家康と関係が深く、もともとの住民は、大阪摂州佃村(大阪市西淀川区)からの移民です。家康が摂州多田の廟に参詣したときに、船を渡して助けたり、本能寺の変の際に、堺にいた家康を急遽本拠地の岡崎城へ帰国させるため、船を出して助けたりする話が伝わっています。こうした縁により、二代将軍徳川秀忠の時代になると、佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる隣の大和田村(西淀川区)33人の漁師が江戸に呼び寄せられ、島に入植しました。

彼らは関西の先進的な漁業技術を関東に広めるとともに、江戸城へ将軍用の白魚や魚を献上する役目を命じられました。他にも、海から江戸城を警備するという任務もあったと言われています。これらの恩賞としてか、佃島の漁民たちには、江戸近辺の海や川ならどこでも漁をしてもかまわないという「御墨付(おすみつき)」が与えられ、自由に漁業を営んでいたと伝わります【明和3年(1766)に書かれた「佃島由緒書」より】。ただ、移住した年が異なる説も存在するなど、成り立ちに不確かな部分もありますが、佃島が幕府の厚い庇護のもとに関東地域で最も強い権限を持つ漁師町として発展していったことは確かなようです。

また、隅田川の風物詩としても有名な白魚漁も佃島に深く関係があります。徳川家康は白魚を好み、わざわざ尾張名古屋の海から江戸に運ばせていたと言われていますが、佃島の漁師は、冬から春のシーズンにかけ、毎朝将軍の食膳に出すための白魚を江戸城に届けていました。そして、残った白魚は市場で売られ、江戸の人々も口にすることができました。しかし、この白魚漁は、隣の月島の埋め立てや周囲の工業化に伴い、急速に衰退していきました。

江戸時代からの漁師町の情緒が残る佃島でしたが、東京オリンピックが開催された1960年代を境に町は急速に変化していきました。江戸時代から続く「佃の渡し」が廃止され、佃大橋が開通。住所も住居表示変更により佃一丁目となって島ではなくなりました。実はこの時、町名に「佃」の文字がなくなりそうになりましたが(候補に「津久田」、「住江」など)、住民や文人・歴史家などの行政への働きかけにより、新町名が「佃」になったという経緯があります。

大阪と繋がりのある佃島には住吉神社があり、例祭である住吉祭(通称「佃祭」)が8月に行われます。本祭は三年に一度行われます。

佃島周辺のおすすめスポット

  • 住吉神社
    船の守り神として船乗りたちが安全な航海を祈願。縁結びの神様としても有名。8月頃に例大祭があり、3年に1度大祭(本祭)が行われる
  • 佃堀
    佃川の埋め立てによりできた堀。下町の街並みと超高層マンション群が混在する景色が望める。佃堀のある佃川支川にはハゼ等が多く生息し釣り人が集まる
  • 佃天台地蔵尊
    入口のイチョウが印象的な細い路地裏にたたずむお地蔵様。平らな天然石に刻まれたお地蔵様で古くから人々に信仰されてきました。住宅地にあり、民家の間に立つ赤い旗が目印
  • 佃源 田中屋
    佃煮誕生の佃にある、、江戸時代創業の老舗の佃煮屋のひとつ。東京のお土産にも最適な商品が並びます

中央区佃についての記事はこちらにもあります

東京の人気高級住宅街・高級不動産「佃」

木場【江東区】

木場 木場公園大橋

木場は江東区の深川地域にある町で、木場公園や木場観音、木場天神などの観光スポットがあり、江戸時代からの歴史と現代的な建築物が混在した街並みが特徴です。近年は再開発が進み、商業施設や住宅が増え、新たな街づくりが進められています。

『木場』とは、元来「貯木場(ちょぼくじょう)」または「木材の切り出し場」を指す言葉でしたが、江戸時代から木材の集積地として栄えたことが、木場の名前の由来となったとされています。足場の悪い筏の上で曲芸を行う木場の角乗りは、東京都の無形文化財に指定されており、今も人々に親しまれています。

慶長9年(1604)、江戸城本丸の建設が始まった頃は、まだ江戸府内に材木置場がありましたが、寛永18年(1641)の大火の際、幕府は防火のために材木置場を市中から離れた場所に移すことを決め、その地が深川の元木場でした。
この元木場の材木商の中から問屋を名乗るものが出てきて、木場材木問屋という名称が起こりました。当初、隅田川には橋がかかっておらず交通の便が悪かったのと、この地の埋め立ての整備が十分でなかったことから、材木問屋の商人たちは元木場に住んでいませんでした。その後、隅田川の架橋と埋立地の整備が進み、次第に材木商たちは住居や店舗をこの地に移し始めましたが、元禄12年(1699)に元木場は幕府に取り上げられたため、猿江(江東区)に移動、しかし、この地も公用地となってしまいます。
元禄14年(1701)に幕府が埋め立て補修して払い下げた深川築地場の土地の一部(現在の木場のあたり)を15人の材木問屋の者たちが払い下げを受け、彼ら自身で土地を整備して町屋敷を設け、材木置場を設けました。この地は、元禄16年(1703)に町名を木場町と名付けられ、正徳3年(1713)に町方支配となりました。

火事の多かった江戸時代に材木問屋は繁盛しましたが、幕末になるにつれ、この一帯の材木業はさびれてしまいます。その後、江戸が東京へと名を変えても木場は貯木場としてあり続けましたが、江東区南部の埋立地の造成で内陸化したことから、ほとんどの材木業者は埋立地の「新木場」に移転、跡地の一部が木場公園となりました。

木場周辺のおすすめスポット

  • 木場公園
    かつて貯木場だった地に出来た都立公園。10月の江東区民祭りでは、木場の伝統芸の「木場の角乗」を見ることができる
  • 東京都現代美術館
    木場公園内にある、現代美術専門の美術館。現代美術の流れを展望できる常設展示や企画・展示など、ジャンルも幅広く紹介
  • 富岡八幡宮
    通称「深川八幡宮」ともいい、八月開催の祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ。江戸勧進相撲発祥の地
  • 深川不動堂
    真言宗智山派の寺院。千葉の成田山新勝寺の東京別院。門前の参道は通称「人情深川ご利益通り」といい、定期的に縁日が開かれている

築地【中央区】

築地 築地大橋

築地は東京都中央区にある地名で、旧京橋区にあたる京橋地域内に位置します。平成30年(2018)10月6日に営業を終了しましたが、東京都中央卸売市場の一つ「築地市場」(代替市場として豊洲市場が開場)があることで有名でした。新鮮な海産物や食材が豊富に取り揃えられた商店街の築地場外市場は、築地市場の豊洲市場移転後も営業を継続しており、はとバスのコースにもなるほど人気があります。
また、歴史的な建造物や寺院、神社なども点在しており、特に、築地本願寺や勝海舟記念館などは歴史的な価値が高く、多くの人々が訪れる人気の観光スポットです。

魚河岸のイメージが強い築地ですが、築地市場ができる前は、この地は江戸時代に海を埋め立てて出来た土地で、大名屋敷や庶民の住宅地として栄えていました。大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに日本橋の魚市場が移転し、正式開場は昭和10年(1935)と、市場の歴史は大正に入ってからです。
築地の地名は、築き上げられた土地、埋められた土地というところを語源とし、対岸の月島(中央区)も同様な理由を由来としています。

現在の築地本願寺(浄土真宗本願寺派別院)は、京都西本願寺の別院として、当初浅草の海辺近くにありましたが、明暦3年(1657)の大火によって消失したため、代替地として八丁堀の海上が幕府から与えられました。本願寺再建に熱心な本願寺門徒の佃島の漁師を中心とする信者たちが協力して土砂を運び、海を埋め立ててこの土地が造成されました。築地本願寺には、この時活躍した佃島漁師の頭領であった森孫右衛門の墓が現在も残ります。
その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立されましたが、他にも、江戸時代を通じて諸大名の上屋敷や中屋敷が立ち並んでいました。播磨赤穂藩浅野家の上屋敷も現在の聖路加病院敷地内にありました。
また、聖路加病院敷地内にあった豊前中津藩奥平家は、江戸中期から後期にかけて好学の藩主を出しており、いち早く死体解剖を実施したり、江戸時代の日蘭対訳辞書として最も充実していた中津版オランダ辞書『蘭語訳撰』を出したりしています。築地鉄砲洲の中津藩邸には、西洋の学問に触発された人々が集まり、藩医の前野良沢は杉田玄白らとともに『解体新書』を完成させ、下級藩士出身の福沢諭吉は、慶應義塾の前身となる蘭学塾を開きました。

安政5年(1858)、日米修好通商条約で江戸の開市が決まり、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が結ばれました。江戸市内に外国人居留地を設けることが約束され、それが明治政府に引き継がれて、明治元年(1868)、築地明石町一帯、現在の聖路加病院一帯に築地居留地が開かれました。居留地内には多くの公使館や領事館が設けられ、ミッション系の学校が次々に開校。現在は移転していますが、明治学院・青山学院・女子学院・女子聖学院・立教大学・暁星学院・関東学院・雙葉学園などのキリスト教学校が居留地内に造られました。

築地周辺のおすすめスポット

  • 歌舞伎座
    銀座にある歌舞伎専用の劇場。シンボルとなる巨大な提灯が設置される地下の「木挽町広場」では、土産や弁当が購入できる
  • 新橋演舞場
    松竹の主要劇場として歌舞伎・新派・松竹新喜劇・新国劇・前進座公演・歌手による芝居公演などを上演
  • 築地場外市場
    築地市場に隣接した商店街。築地市場移転後も営業は継続。海産物を中心に小売店、飲食店などがあり、はとバスツアーのコースにもなっている
  • 銀座三越
    老舗百貨店「三越」の銀座店。銀座地区では松屋銀座を抑えて売り上げトップを誇る。なお、三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる
  • GINZA SIX(ギンザシックス)
    世界の高級ブランドの旗艦店や注目のグルメが集まる銀座エリア最大級の複合商業施設
  • 築地本願寺
    浄土真宗本願寺派の寺院。京都市の西本願寺の直轄寺院。本尊は聖徳太子手彫りと伝承される阿弥陀如来立像
  • 勝鬨橋
    築地と勝どきの間の隅田川下流にかかる橋。中央が開閉する可動橋であったが、今は大型船舶の減少で開閉は行われていない

永代【江東区】

永代 永代橋

永代は深川地域に属する江東区の町名で、江東区の西部に位置する住宅街です。
永代は住宅街として開発されているため多くの住宅が建ち並んでおり、近くには公園やスポーツ施設などもあって、家族連れでのお出かけにも適した場所です。交通の面では東京メトロ東西線の門前仲町駅が最寄りの駅となります。

地名の由来は、江戸時代、隅田川の河口にできた砂州の呼称であった永代島です。永代島は富岡八幡宮のあたりから佐賀町(江東区佐賀)にかけての一帯を称しました。
明暦元年(1655)、永代島は江戸の町のごみ捨て場に指定され、船で運ばれた江戸のごみが捨てられていました。延宝9年(1681)になると、ごみ捨て場は永代島新田と砂村新田(江東区南砂・東砂・新砂)に改められます。これは、江戸のごみが新田を広げるための埋め立ての材料として利用されたからです。享保15年(1730)、ごみ捨て場は永代島の南、越中島へと移され、埋立地は拡大していきました。こうして、江東沿岸地域では、干潟や入江であった場所が江戸のごみによって新田となっていきました。

こうして成立した新田は、ほかの江戸近郊農村とは異なり、江戸市中に近いうえに江戸湾がすぐそばにあって景色がよく、新田の中に武士の抱屋敷(町人や百姓から土地を買って建てた家)が増えていきました。

永代周辺のおすすめスポット

  • 永代橋
    淡い水色のカラーリングが特徴。橋の中央から佃のマンション群が一望できる
  • 大島川水門
    一級河川の隅田川だからこそ見られる景色。高さ8mの堅硬なフォルムは圧巻です
  • 渋沢栄一宅跡
    新一万円札の肖像画に起用され話題の人物「渋沢栄一」36歳時の本邸跡
  • 佐久間象山砲塾跡
    兵学者・朱子学者・思想家の佐久間象山が西洋砲術塾を開いた屋敷跡。あの勝海舟も入門していたとのこと
  • 永代出世稲荷神社
    住宅街のど真ん中、「永代出世」という社号の響きで人気のパワースポット


※参考資料:大石学著『地名で読む江戸の町』PHP新書

中央区、江東区の住みやすさは?東京都心14区の住みやすさを各種データで比較した次の記事もご覧ください。

「都心に住もう!東京14区の住みやすさ比較」
中央区 江東区

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