真の山の手 (しんのやまのて)とは

「山の手」と「下町」

高級住宅街のことをよく「山の手」と言います。
対して、古くからの商店が多く残るような庶民的な街を「下町」と呼んでいます。
しかし本当の「山の手」の定義は、青梅から延びてきた武蔵野台地の高台に位置した住宅地で、江戸時代から武家屋敷が置かれていた地域です。
「山の手」「下町」とは、武蔵野台地の端を境にした地理的な呼び名なのです。

この『真の山の手』は今の地名でいう、番町、麹町、紀尾井町、永田町、平河町、九段、富士見、神田駿河台、赤坂、麻布、三田、市ヶ谷、信濃町など、千代田区港区新宿区のエリアになります。
それでは元祖『真の山の手』と呼ばれる高級住宅街をご紹介します。

■番町

江戸城の外堀跡。皇居周辺の緑豊かで落ち着きある街並みです。
千代田区の、一番町から六番町までの町を指します。
皇居より西に位置し、南には新宿通り、北には靖国通りが通っています。
江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれました。
怪談『番町皿屋敷』の番町とはこの地域のことです。
→詳しくはこちらから 「番町」

■麹町

名前の由来は、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた麹(こうじ)をつくる家があったからという説、
府中の国府を往来する国府街道の江戸における出入口であり、国府路(こうじ)の町であったという説、
町内に小路(こうじ)が多かったからという説、などがあります。
麹町は千代田区の西部、皇居の半蔵門から四谷見附まで、東西に細長い1.3㎞ほどの街です。
かつては日本テレビの本社があり(汐留に移転)、現在でも日本テレビ、TOKYO MX、エフエム東京などのマスコミ関係関連社屋があります。
番地は偶数奇数が麹町大通りをはさんで交互にあるため、 初めてきた人が番地を探そうとしても難しいそうです。
麹町は教育に強く、かつては「番町小、麹町中、日比谷高、東大」というのがエリートコースでした。
麹町中学校はもちろん有名ですが、麹町小学校は番町小・青南小・白金小・誠之小などと同様に、公立小学校の名門として学区外からの越境通学者が多く、卒業生の難関中高一貫校などへの進学率が高いことでも知られています。
数多くの有名作家、実業家、政治家が卒業生として名を馳せました。

 ・麹町に近い駅‥半蔵門 麹町

■紀尾井町

江戸時代、紀尾井坂の付近には、紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷があったことから、一字ずつ取って「紀尾井坂」と呼ばれるようになりました。
周辺の「紀尾井町」という町名もこの坂に由来します。
現在の「紀尾井坂」は千代田区の西部に位置し、港区(赤坂・元赤坂)・新宿区(四谷)との区境にあります。
東部に平河町、南部は永田町、北部は麹町という錚々たる住宅地に接しているのです。
かつては番町と並ぶ「山の手」の一つである緑多き優雅な佇まいの住宅街でしたが、1975年以降はオフィスビルが目立つようになり、 前述のホテル、大学、レストラン、企業の本社ビルやコンサートホール、議員宿舎などが大部分を占め、今日の姿となりました。
そのため紀尾井町に由緒正しき物件が売りに出されていることは稀になり、希少価値が高いといえます。
1967年公開の映画「007は二度死ぬ」で隣接する元赤坂1丁目と共に、住宅街であった当時の姿が垣間見る事が出来ます。
四ッ谷駅麹町口を出て右方向に歩き、眼の前の上智大学から南東側が紀尾井町になります。
正確には上智大の入り口とイグナチオ教会は麹町6丁目ですが、大学のほとんどは紀尾井町に含まれます。

 ・紀尾井町に近い駅‥半蔵門 麹町

■平河町

東京都千代田区の西部に位置しています。
地域北部は東京FM通り、麹町に接し、地域東部は隼町に、地域南部は青山通り、永田町に接しています。
地域西部はプリンス通り、紀尾井町に接します。
皇居や最高裁判所も程近く、まさに政治の中心に位置します。
明治時代以降、平河町は番町、麹町と並び、大名屋敷、旗本屋敷といった武家屋敷跡のいわゆる「お屋敷町」でした。
現在でも政党の本拠地や有名企業の本社が集まる町として威厳があります。
麹町大通りを挟んで対称にある番町とは対照的に、企業・商店が多いことも特徴のひとつです。
また、その町名の由来でもある平河天満宮が有名です。天満天神として信仰の対象となった菅原道真が祭られています。
彼にちなんで撫で牛や岩牛が境内に鎮座しています。
また、鳥居も千代田区では一番古い鳥居の様です。
現在は学問の神としてや、パワースポットとしても多くの人に親しまれています。

 ・平河町に近い駅‥永田町 麹町

■永田町

東京都千代田区南端の町名。
政治の中心、国会議事堂を構えています。
国会議事堂の周りは美しい庭園で囲まれていて、南側はかって霞ヶ関離宮のあった跡。
池を中心とした静かな日本庭園となっています。
北側は、芝生を中心とした洋式庭園です。
明治時代には陸軍省などが置かれていて、当時「永田町」といえば参謀本部を指す言葉でした。
このあたりを標高の基準にすえて日本地図が作られたそうです。
町名は、江戸初期に永田姓の旗本(はたもと)屋敷が並んでいたため「永田馬場」と呼ばれたことに由来しています。
その後、江戸城に近いことから加藤清正などの大名屋敷が建ち並ぶようになり、寛永年間(1624~44)から明治にかけ井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷がありました。
大正に入り、 1923年の関東大震災を機に現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、北大路魯山人が星岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とし、 都立日比谷高校(当時の府立一中)がこの地の「たばこ王」 村井吉兵衛の邸宅跡に移転してきました。
そして明治期には大半が軍用地に変わりました。
1936年に国会議事堂が完成すると一挙に政治中枢が集中し、「永田町」は「政界」の代名詞になっていったのです。
今では想像がつきませんが、東京オリンピックに向けての道路(国会通り)拡幅前は国会議事堂横に民家が数軒存在していました。
現在では内閣総理大臣官邸(首相官邸)、衆議院議長・参議院議長公邸、諸政党の本部などが立地し、日本の国家中枢機能が集中しています。
永田町山王パークタワーなど一部のビルなどでは、階ごとに特別な郵便番号が設定されています。

 ・永田町に近い駅‥永田町 国会議事堂前 溜池山王 赤坂見附 霞ヶ関

■九段

江戸時代からの屋敷街であった九段。緑豊かな格式ある街です。
九段(くだん)は、東京都千代田区にかつて存在した町名、および坂(九段坂(くだんざか))の名からつけられました。
江戸時代、この丘の傾斜に9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来しています。
1966年、現在の九段南・九段北1-4丁目となりました。
江戸城の北の丸であった「北の丸公園」をはじめ、桜の名所である「千鳥ケ淵」、 「靖国神社」など日本の歴史と格式を感じるエリアです。
北の丸公園内には「武道館」「科学技術館」があります。
教育機関は千代田区立九段中等教育学校や、暁星学園などが存在しています。
これらの学校は共に各界の著名人を数多く輩出し、一流大学への進学率を誇っています。
東京メトロ東西線・半蔵門線と 都営地下鉄新宿線が乗り入れる九段下駅の出口周辺はオフィスビルや公的機関が密集していますが、靖国通りから早稲田通りのほうへ路地を入っていくと、今も趣のある古いお屋敷が続きます。
落ち着いた雰囲気を守りながら、 数々のハイグレードな高層マンションも開発され、環境がよく利便性の高い職住近接の住宅地として根強い人気を集めています。

 ・九段に近い駅‥九段下 市ヶ谷 半蔵門

■富士見

地名は富士見坂から来ています。
高い建物のなかった江戸時代には、ちょっとした丘に上れば江戸湾や富士山を望むことができました。
江戸庶民はこれらの景観を好み、高台や坂に名前を付けました。これらの坂名から当時の「見晴らしの良さ」が想像できます。
しかし、現在ではビルが密集した地域となり、富士山を見ることはできなくなっています。
現在では良く晴れて空気の澄んだ日に、 超高層ビルの展望台に上ると美しい富士山が見られるといったところでしょう。
富士見坂の地下深くには東京メトロ半蔵門線、南北線、有楽町線の永田町駅各ホームが複雑に立体交差しています 。
銀座線、丸ノ内線の赤坂見附駅とも構内の地下道で連絡しています。
富士見坂の脇にある法政大学を始めとして、白百合学園や三輪田学園などこの街には数多くの教育機関が集まっています。
東京での桜開花予想の基準となるソメイヨシノの樹があることでも知られる靖国神社を始め、富士見坂の坂下にある外濠公園や外堀通り、そして少し離れた皇居・北の丸公園や千鳥ヶ淵 など高台からの眺望が素晴らしい場所が数多くあります。
毎年春になるとたいへんな混雑になります。

 ・富士見に近い駅‥飯田橋

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